日中の領土問題をどう見るか            -平和友好条約締結35周年を迎えて-

村田忠禧

(横浜国立大学名誉教授 神奈川県日中友好協会副会長)

1 日中間に「領土問題」は存在しない、という立場について

 日本政府は「尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません」(尖閣諸島についての基本見解)と領土問題の存在そのものを認めない立場である。
 中国政府は日本政府の「尖閣諸島」買い上げに関する2012年9月10日の外交部声明において「中国政府严正声明,日本政府的所谓“购岛”完全是非法的、无效的,丝毫改变不了日本侵占中国领土的历史事实,丝毫改变不了中国对钓鱼岛及其附属岛屿的领土主权。中华民族任人欺凌的时代已经一去不复返了。中国政府不会坐视领土主权受到侵犯。中方强烈敦促日方立即停止一切损害中国领土主权的行为,不折不扣地回到双方达成的共识和谅解上来,回到谈判解决争议的轨道上来」と声明している通り、中国はこれらの島についての主権はあくまでも主張するが、双方の共通認識と了解に立ち戻り、話し合いによって問題を解決すべきと主張している。どちらが冷静かつ道理に合った対応であるかはいうまでもない。

 問題は日本政府あるいはそれを支える政党の頑なな対応だけではない。本来、客観的、公正な立場で報道すべきマスコミの報道そのものが非常に偏っていることである。一例として『朝日新聞』の1984年から今日(2013年4月8日)までのあらゆる記事のうち、以前だったら「尖閣諸島」について報道する場合にはその後に(中国名・釣魚島)という表記を付けて報道していたものが、「沖縄県尖閣諸島」もしくは「沖縄県・尖閣諸島」とだけ書くようになっていることである。
 「沖縄県・尖閣諸島」もしくは「沖縄県尖閣諸島」とのみ書いて、(中国名・釣魚島)を後につけない記事は全体で153件存在しているが、2010年に突如、66件も登場し(それ以前は合計でも32件に過ぎない)、2011年は3件と減るが、2012年は35件、2013年は4月8日現在ですでに17件。いわゆる漁船衝突事件が発生した2010年にとりわけ多く、ついで「国有化」問題が発生した2012年、そして2013年においても増加傾向である。2010年の巡視船と漁船との「衝突」事件を契機に、日本のマスコミは雪崩を打ったかのように「翼賛報道」一辺倒になっている。きわめて危険な傾向である。

2 生活者の視点の大切さ

 領土問題というと人々は突如、「愛国」の箍をはめられ、一歩たりとも譲歩してはならない、といった狭いナショナリズムに陥りやすい。しかしわれわれは常に生活者の視点を堅持しつつ、問題を冷静、客観的、平和的に解決する精神を堅持すべきである。
 この島の周囲を地図で見ると、釣魚島にもっとも近いのは沖縄県石垣島で、およそ150km、台湾の基隆とはおよそ185km、大陸だともっと遠くなる。しかしこれは図上の計算に過ぎず、これらの島の実際の往来には黒潮の強い流れ、南西諸島と釣魚諸島との間に横たわる場所によっては2000mをも越える深い沖縄トラフ(trough)が天然の障壁を構成していて、琉球・沖縄の漁民たちには容易に近づけない島々であった。逆に台湾や福建、浙江など中国の漁民からすれば、200m未満の大陸棚の縁に位置する島々であるため、漁に出ていて悪天候になった場合の避難場所等としても使われていた。
 「魚釣島」という呼称そのものが中国語の「釣魚島」に基づいている通り、中国との関係が密接であった。明、清の時代に福建の福州から冊封船で那覇にやってくる使節たちは必ずこの島を右手(東南方角)に見ながら那覇に向った。赤尾嶼を過ぎ、黒潮の流れを乗り切って久米島を目にしてようやく琉球の領域に入った、と安堵したのである。中国側にとっては倭寇の問題、日本側(琉球をも含めて)にとっては切支丹禁制が厳しかったため、それぞれが守るべき領域は明確であった。

3 明、清の冊封使の記録や徳川幕府が作らせた琉球国絵図から見ると

 かつて琉球は日本の一部ではなく、小さいけれども一つの独立した王国であった。その経済は主として明、清という宗主国への朝貢・進貢という形態をとった官営貿易に依拠していた。
 鎖国政策を採った徳川幕府は長崎のみをオランダ、中国との通商口とするが、同時に薩摩藩が1609年に琉球を侵攻し、琉球王国をその支配下に置いたあと、中国との通商口として、琉球を活用した。ただしそれは表向き、琉球と中国との冊封体制下の朝貢・進貢交易を利用したものであって、薩摩藩ましてや徳川幕府が裏で操っていることは隠蔽したうえでの交易であった。
 徳川幕府は全国に一里六寸という統一した縮尺(21600分の1)に基づく国絵図を作らせる。琉球についても正保(1649年)、元禄(1702年)、天保(1834年)に国絵図が作られるが、サンゴ礁の存在をも克明に記している当時の測量技術の高さは実に素晴らしいものがある。
 一般に琉球は三省三十六島といわれるが、国絵図に描かれている○○島と名付けられたものを数えてみると、奄美諸島部分は13、沖縄諸島部分は46、先島諸島部分は21、合計80も存在する。しかしそこには今日、尖閣諸島と言われている島々は絶対に含まれていない。琉球国の範囲外であるのだから、存在しないのが当然である。これは琉球、中国、日本の共通の理解であった。

4 沖縄処分と琉球分割案

 中国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、香港を割譲されるとともに、広州のみでの交易から上海や福州を含む五港開港を強いられたことを知った日本は、太平洋航路の開設に意欲を持つアメリカのペリー艦隊の浦賀上陸を契機に、鎖国政策を変更せざるを得なかった。それを契機に徳川幕藩体制は崩壊し、明治天皇を頂点とする中央統一政権国家が誕生することになった。
 それまで清国とともに薩摩藩にも従属関係にありながら(両属)、独立国の形をとっていた琉球は明治政権の直接支配のもとに置かれる。ただし500年もの間、中国を宗主国とし、その恩恵に浴してきた琉球の、とりわけ国王を頂点にいだく支配層は、清国との関係を断絶させようとする明治政府の命令に抵抗する。清国も朝鮮、琉球の宗主国としての地位を放棄することはしない。日本は琉球処分(1879年)により琉球国を消滅させ、沖縄県として自国に組み込み、朝鮮を独立させると称して、実際には日本の支配下に置こうとするさまざまな策動を行う。アジア諸国との連帯ではなく「脱亜入欧」、列強に伍することを目的とする道をひた走ることになる。
 琉球処分を強行した翌1890年、日清修好条規を改正させるうえの取り引き材料として、琉球を沖縄本島以北と宮古・八重山の先島部分に分割し、先島部分を清国に分け与えようとする。琉球人の意向をまったく無視したこの動きは、「脱清者」(清国に亡命し琉球国を復活させようとする人々)の抵抗で実現しなかったが、この日本の身勝手な動きは琉球の人々の不信と怒りを呼び起こす。

5 1885年になぜ魚釣島等の領有は実現しなかったのか

 1885年8月、山県有朋内務卿の命を受け、西村捨三沖縄県令は南大東島、北大東島の調査を行うと同時に、国標を建ててそこが沖縄県管轄下にあるものとする。山県は西村の果断な対応から、次に沖縄県と清国福州との間に散在する無人島、久米赤島外二島取調について当時、上京していた沖縄県大書記官の森長義に内命を出す。どういうルートによるものかは不明だが、9月6日の上海『申報』に「『文匯報』〔当時、上海にあった英字紙〕に高麗から伝わって来た情報として、台湾東北辺の海島に、近頃日本人が日章旗をその上に懸け、大いに占拠しようとする勢いにあると謂う。いかなる意見によるものか、まだよく分からないが、一先ずここに記録し、後聞を待つことにする」と日本への警戒心を呼びかける報道が掲載される。
 琉球の歴史を知っていた沖縄県令西村捨三にこの内命が伝達されるのは9月20日頃のこと。西村のこの時の対応は大東島の場合とは異なり、内命を受けるや直ちに調査、国標建設をする、ということをしなかった。

 まず福州と那覇との間を往来したことのある琉球人への聞き取り調査を報告する形をとって、この島々に国標を建てることは、清国との間で問題を起こしうることを山県に回答し、ひとまず調査だけは実施し、国標建設は行わないこととする。山県有朋は井上馨外務卿に意見を求めるが、井上は上海『申報』に日本の動きに警戒を呼びかける報道があったことをすでに知っていたので、10月21日に「此際遽に公然国標を建設する等の処置有之候ては、清国の疑惑を招き候間、差向実地を踏査せしめ、港湾の形状并に土地物産開拓見込有無等詳細報告せしむるのみに止め、国標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲候方、可然存候」と回答する。
 一方、沖縄では10月末に西表島から那覇への帰路に立ち寄る形での魚釣島への調査(といっても6時間にも満たない)を行う。久場島(黄尾嶼)、久米赤島(赤尾嶼)については実際の調査は実施していない。
 この時の調査報告を受けて、沖縄県大書記官・森長義は11月5日に西村捨三県令名義の上申を書き、「依て熟考するに最初清国と接近するの疑を抱き、何れに属するや否に到ては甚だ不決断の語を添へ上申候得共、今回の復命及報告書に拠れば、勿論貴重の島嶼には無之候得共、地形より論ずるときは、即ち我八重山群島の北西にして、与那国島より遥に東北に位すれば、本県の所轄と御決定相成、可然哉に被考候。果して然ば大東島の例に倣へ、本県所轄の標札、魚釣島、久場島へ船便、都合を以て建設致可然哉」と9月段階での西村の見解とはまったく異なった回答をする。

 実はこの森長義が西村捨三名義で書いた11月5日付け上申は11月13日に上京していた西村によって破棄され、実際には山県内務卿に届いていない。それだけでなく、西村は11月24日に山県内務卿、井上外務卿宛てに書簡を発し、「該島国標建設の儀は嘗て伺書の通、清国と関係なきにしもあらず。萬一不都合を生じ候ては不相済候に付、如何取計可然哉、至急何分の御指揮奉仰候也」と問題の重大性を訴える。彼はそれを訴えるためにあえて上京したものと思われる。おそらく山県、井上に直接会って説明をしたことであろう。
 それを受けて12月5日に山県は三条実美太政大臣宛てに「国標建設の儀は清国に交渉し、彼是都合も有之候に付、目下見合せ候方、可然と相考候間、外務卿と協議の上、其旨同県へ致指令候条、此段及内申候也」との内申を出す。これによって1885年の国標建設は清国と関わることがあるため、目下見合わせる、との結論になった。この結論に至った最大の功労者は西村捨三沖縄県令である。

6 戦争に勝利しているので「当時と今日とは事情が異なる」

 しかし1885年11月5日付け西村県令名義の文書は沖縄県では破棄されることなく保存されていた。この僣称文書が災いのもとになる。1890年1月13日、丸岡莞爾沖縄県知事は「甲第一号 無人島久場島魚釣島之義に付伺」と題する文書を内務大臣宛てに出して、1885年の指令の見直しを内務省に求める。しかし見直しはなされない。次の奈良原繁県知事も1893年11月2日に「甲第百十一号 久場島魚釣島へ本県所轄標杭建設之義ニ付上申」と題する上申書を内務大臣、外務大臣に出して見直しを求めるが、変更されることはなかった。

 それが1894年12月15日にいたって「久場島魚釣島へ所轄標杭建設之義」がまたもや内務省で取り上げられる。その根拠は「其当時と今日とは大に事情を異に致候に付」である。
 野村靖内務大臣は12月27日に陸奥宗光外務大臣に「本件に関して別紙乙号の通り明治十八年中、貴省と御協議の末、指令及びたる次第も有之候得共、其当時と今日とは事情も相異候に付、別紙閣議提出の見込に有之候条、一応及御協議候也」と意見を聞き、陸奥外務大臣は翌年1月11日に「本件に関し本省に於ては別段異議無之候付、御見込の通り御取計相成、可然と存候」と回答する。外務大臣も今回は異論なし、とした。そこで1895年1月21日付けで閣議決定が成立した、ということになる。

 当時(1885年~1894年5月)と今日(1894年12月)の「事情も相異」なるとは何か。いうまでもなく、1894年7月末に始まった日清戦争で日本が圧倒的に勝利を収め、清国から巨額な賠償金を勝ち取る他に、台湾、澎湖列島をも領有することを進めつつあった時期である。その戦争のさなかに、こっそりとこの清国と交渉ある島を沖縄県の管轄下に置くということにしたのである。しかもこの事実は官報にも掲載していない。つまり自国民にすら公表していないものである。「窃取」したという表現は決して誇張したものではなく、事実に基づいている、と言わざるを得ない。

 なお5月末には花伝社より村田忠禧著『日中領土問題の起源』と題する書籍を出版する予定で、そこにここで紹介した以外にもいろいろ貴重な資料、事実を紹介しているので、ぜひ目を通していただきたい。

2013年4月12日 関東日中平和友好会にて