黙約の有無は曖昧にできない

横堀 克己

 人と人との関係も、国と国との関係も、「信」がなければ成り立たない。同じ東洋の国であり、儒教文化の影響が強い中国、韓国と日本の間では、なおさらである。

 40年前、日中国交正常化の共同声明が調印された直後、周恩来総理は「言必信 行必果」と揮毫し、田中角栄首相は「信は万事の本である」と書いた。「信」こそ日中関係の基礎であることを確認しあったのである。

 「言必信 行必果」は『論語』子路篇にあり、昨年、中国で刊行された『論語別裁』は「口にしたことは必ず実行する。何かしたらきちんと成果を出す」と解釈している。

 一方、「信は万事の本である」はもともと中国の史書に出てくる言葉で、「信為萬事之本」の日本語訳である。

 しかしまことに残念なのは、いま、日中間には、この「信」がほとんどなくなってしまっていることだ。

 真実は一つしかない

 尖閣諸島(中国名・釣魚島)問題では、中国側が「棚上げ(中国では擱置という)の黙約があった」としているのに対し、日本の外務省は「なかった」とし、外交記録に記載がないとしている。

 だが、「棚上げにしておこう」というのはあくまで両国の指導者同士の「暗黙の了解」なのだから、外交記録にないのは当然ではないか。

 「棚上げの黙約」はあったのか、なかったのか。7月7日に東京で開催された「平和の海を求めて――東アジアと領土問題」のシンポジウムで講演した丹羽宇一朗・前駐中国大使は「黙約の有無を論ずるのは生産的でない」と論じた。

 果たしてそうであろうか。真実は一つしかない。ここを曖昧にして、日中関係を改善することができるであろうか。

 「信」の原点に戻ろう

 日本の外交文書によれば、日中国交正常化の第3回首脳会談で田中首相は「尖閣諸島についてはどう思うか」と問いかけた。これに対し周総理は「今回は話したくない。これを話すのはよくない」と応じた。そして日中共同声明が調印され、国交が正常化した。これを「棚上げ」と呼ぼうが「切り離し」と呼ぼうが、領土の問題はひとまず脇に置いて、国交正常化をしようということで両国首脳が暗黙の了解に達したしたことは明らかである。

 そして両首脳は、冒頭の書を色紙に書いて交換した。もし、この暗黙の了解がなかったのならば、その後の30数年間の日中関係の発展はありえなかっただろう。もし暗黙の了解があったのに、これをなかったことにするならば、日本の政治指導者の発言は「信」を置けないことになる。もう一度、田中首相と周総理の交わした「信」の原点に戻ろうではないか。

(出典:『日本と中国』9月1日号)