日中関係修復から東アジアの安定へ

伊藤忠商事理事 石田護

 尖閣を巡る日中対立において不測の衝突が懸念されている。両国の緊急課題は危機管理、中期課題は日中関係正常化、長期課題は東アジアに平和の枠組みを構築することである。私は、両国が日中関係正常化への強い意思を共有しなければ当面の危機管理は困難であり、東アジアの平和の枠組み実現に協力することなくして日中関係を正常化することはできないと考えている。

 2012年9月以降の日中関係悪化の発端は、中国が日本政府による魚釣島国有化を、領土問題棚上げの暗黙の了解を無視したと反発したことであった。1972年の日中国交回復交渉に同席した日中双方の当事者の証言によると、周恩来総理は田中角栄首相に、「尖閣については双方とも言うことが沢山あり、それを言い出すと首脳会談は終わらないので、今回は触れないでおこう」と語り、田中首相がそれに同意した。1978年、鄧小平副主席は、日中平和条約批准書交換で来日した際、記者会見で「われわれの世代の人間は知恵が足りない。次の世代はもっと知恵があるだろう」と語った。

 日本外務省の公式記録には、周恩来と田中角栄のこのやりとりも鄧小平副主席の発言も存在しない。日本政府は、このことを根拠に、「領土問題は存在しない、棚上げに合意したことはない」と主張している。中国は、日本政府が日中間の暗黙の了解を否定したので、中国には自制の基盤がなくなったとして、船舶や航空機による示威活動を強化した。それは日本を交渉の席につかせる手段と言われるが、手段が日本の国民感情を刺激し、結果的に日本の右翼化を後押ししている。

 アメリカは、尖閣諸島の領有権問題では中立であるが、日本の施政権を認め、日米安全保障条約上の防衛義務があると言明している。従って、日中間で不測の衝突が発生すると、アメリカは軍事介入に巻き込まれる危険がある。その場合、米中関係、アメリカのアジア戦略、米経済復活戦略が打撃を受ける。故に、オバマ政権は日中両国に外交による解決を求めている。元米国防次官補のジョセフ・ナイは、棚上げ復帰以上の解決策は見当たらないと述べている。彼は、また、東シナ海ガス田共同開発合意の復活を提案している。

 中国は、1979年6月、外交ルートを通して日本に資源の共同開発を提案、日本では閣議で森山運輸相が共同開発を提唱し、園田外相が同調した。台湾の反対が障害であったと言われる。2008年、日中は東シナ海ガス田の共同開発に合意した(実際には、中国国内で反対が強く、中国が単独で開発を進めている)。こうした経緯から判断して、日中両国が現状を打開するため、領土問題棚上げ復帰と同時に、或いは、棚上げ復帰後の早い機会に、資源共同開発に合意することは、本来であれば、自然な成り行きであり、更に、それを南沙諸島における領海紛争に拡大適用する道筋が考えられるが、日本政府は領土問題の話し合いを拒否している。

 逆に、先ず中国とアセアンが領海紛争棚上げと資源共同開発に合意し、次にそれを尖閣と竹島に拡大適用する道筋が考えられる。鄧小平副首相は、1988年、フィリッピンのアキノ大統領に、南沙諸島の領土問題棚上げと資源の共同開発を提案した。本年6月2日、中国人民解放軍戚建国副総参謀長はシンガポールのアジア安全保障会議で「中国は領有権問題の棚上げと資源の共同開発を提案してきた。鄧小平氏の棚上げ論は賢明な戦略的選択だった」と語った。更に、6月27日、王毅外相が精華大学における世界平和フォーラムで「問題を棚上げし、共同開発することが可能だ」と語った。中国は、従来、拘束力を持つ行動規範制定を主張するアセアンと対立してきたが、2013年6月30日、ブルネイにおける外相会議で、この方針を転換して、アセアンと行動規範策定協議開始に合意した。但し、中国は紛争当事国との直接交渉によって紛争解決を図る考えに変わりはないとしている。

 アセアンは元々アセアン10カ国と中国、或いは、日本といった一つの大国の枠組みを好まないと言われる。アセアンには日中が入る10+2、或いは、日中韓が入る10+3の枠組みに安心感がるようである。10+2、10+3を領海紛争に則して考えると、中国とアセアンの領土問題棚上げと資源の共同開発を尖閣列島、更には竹島にまで拡大することになる。その場合の10は2015年に創設するアセアン経済共同体であることが望ましい。こうした構想は、東アジアの各国が、狭い意味の国益ではなく、東アジア全体の利益の中に自己の国益を見出すことを意味する。東アジアの安全保障環境が改善される。国際社会における中国のイメージは一段と高まるだろう。

 ヨーロッパは、1950年代の始め、独仏が再び戦争を起こすことがないよう、戦争の物質的基礎である石炭と鉄鋼の生産を国際管理下に置く欧州石炭鉄鋼共同体を創設、それを現在の欧州連合に発展させた。東アジアは、日本、中国、中国と領海紛争を持つアセアン諸国が資源共同開発によって経済利益を分かち、平和な関係を構築することができれば、欧州統合の出発点となった欧州石炭鉄鋼共同体と概ね同じ段階に立つことになる。

 問題は、日本でも中国でもポピュリズムとナショナリズムに傾きがちな政治状況である。今まで自国固有の領土であると言い張ってきた政府が、領土問題の棚上げや資源の共同開発を国民に受け入れさせることは容易でない。中国は日本が実効支配してきた従来の棚上げへの復帰ではなく、日中の公船が12カイリ以内に入らない新たな棚上げ案を提示した。日本政府は日本の実効支配を否定する中国の棚上げ案を受け入れることはできない。しかし、現状が長く続けば続くほど、不測の軍事衝突が発生する可能性も高まる。戦争を記憶する私は、制御不能に陥る可能性さえ否定できないと考えている。東アジアは現在の危険な状況を平和な関係に転換しなければならない。こうした転換によってのみ、日中は、面子を失うことなく、上げた拳を下ろすことができる。

 それは非常に困難であるが、不可能とは言い切れない。理由は二つある。

 第一.日中も国際社会も、現状の継続が危険であることと、不測の軍事衝突を防止する仕組みの必要性を認識している。

 第二.アセアン+日中韓(10+3)には一定の道具立てが揃っている。2005年、10+3首脳会議は「東アジア共同体を実現する共通の決意」を確認し、「10+3が東アジア共同体達成の主たる手段になる」と宣言した。その後、東アジア共同体への動きは失速したが、10+3は今も東アジア研究所連合(Network of East Asian Think-tanks)を維持しており、政治が決意すれば、それを平和の枠組みの構想作りに活用できる。

 欧州統合は、戦争の惨禍の記憶が薄れる前に、域内二大国独仏の政治指導者が協力して実現した。今のアジアは、大戦終結から68年、戦争の記憶が薄れ、その上、域内二大国日中が対立している。両国政治指導者間には協力の前提条件である信頼関係が欠如している。東アジアの挑戦は、このように歴史的大変革には不利な状況の中で、次の戦争を防ぐ仕組みを作ることである。

 その成否は、東アジアの政治指導者が、志を同じくすることができるか、民意に縛られるのではなく、民意を説得できるかに懸かっている。1995年11月、私は広島を訪れた元シュミット西独首相に、ドイツ国民の60パーセント以上が反対する欧州通貨統合は実現するのかと尋ねた。シュミットさんは「国民を説得するのが政治指導者の責任である。コール首相がそれを果す」と断言した。私は、日中の政治指導者の責任は、尖閣諸島を巡る論争に終始するのではなく、より高く、より広い視野から、東アジアの平和と安定を確保する大きな構想を語り合い、それぞれの国民を説得することであると、考えている。