思い出の毛主席と周総理――通訳のエピソードを中心に

日中未来の会の皆様にお目にかかることができ、大変嬉しく思います。今日はご多忙のところ、お集まりをいただき、誠にありがとうございます。

「思い出の毛主席と周総理――通訳のエピソードを中心に」と題して、私の経験したことをお話させていただきますが、時間があれば、陳毅副総理と郭沫若先生のことにも少し触れてみたいと思います。

私にとりまして、日本関係の仕事の最初は1951年の春、生まれ故郷の大連からでございました。終戦後間もなく、大連に人民政府が成立し、また人民政府に留用された日本人技術者の子弟のための学校――大連日僑学校ができました。政府から派遣され、そこで中国語を教えたのが私の日本関係の仕事の始まりで、考えてみますと、かれこれ60数年もの歳月が経ちました。その翌年――1952年の12月、北京に転勤になり、日本向けの総合雑誌『人民中国』の創刊に加わり、いらい約12年間翻訳や編集の仕事に携わりましたが、そのころはまだ中日関係が正常化されておらず、民間交流の段階にありました。日本におきましては、日中友好の機運がしだいに高まり、国交回復要求の国民運動が盛り上がりを見せ始めたころでございます。

そのころから、中日間の民間交流が多くなり、日本の代表団が相次いで中国を訪問し、中国も少数ではありますが、日本に代表団を送るようになり、通訳の必要が増えてきました。『人民中国』の仕事の傍ら、ときどき臨時に接待部門に出向させられ、日常の通訳をしていましたが、徐々に重要な会見や会談に行くようになりました。最初に接した日本の代表団は、1954年の7月、ストックホルムの世界平和会議に出席した後、帰途、北京を訪問した超党派の国会議員代表団でした。団員には、のちに総理大臣、衆議院議長や外相を務められた中曽根康弘氏、桜内義雄氏、園田直氏がおられ、この人たちは当時「青年将校」とか「少壮派」と呼ばれていました。

もし、私の人生に特筆すべき点があるとすれば、それは、1950年代の半ばから1960年代の半ばにかけて、毛沢東主席や周恩来総理、劉少奇、鄧小平、陳毅らの指導者が日本の友人と会見するさい、たびたび通訳を務めたことであろうかと思います。

まだ二十歳代で、しかも北京に来て間もない私がこんな大役を仰せつかるとは、まるで夢のようでした。

一人の人間の運命はその人の生きていた時代と切り離せないことを考えると、幸せであったというほかありません。

そのころ、このような重要な会見は、国務院の外事弁公室が統一的にアレンジし、必要に応じて、当時外文出版局の『人民中国』編集部に勤務していた私に声がかかりました。

毛主席や周総理の通訳をするのは、普通の場合と違ってどうしても緊張します。じつは、私も見習いから入り、失敗を重ねながらしだいに仕事に慣れるというプロセスをたどったと言えましょう。

 

初めて毛主席の通訳を仰せつかったのは1955年の10月で、緊張のあまり、のっけからドジを踏んでしまいました。

10月15日午後5時、毛主席が中南海で日本国会議員代表団と会見した時のことです。会見ホールには、白いテーブルクロスに覆われた素朴なテーブルが置かれていましたが、毛主席はじめ周総理、劉少奇、陳毅らの指導者がテーブルの外側に、日本のお客さんが内側に着席し、通訳の私は団長の横に坐りました。大連から北京に来てからは、国慶節のときだけ、天安門広場から遠く離れた天安門楼上に立つ毛主席を眺めたことはありますが、毛主席の向かい側に坐り、目の前で毛主席の顔を見るのは生まれてはじめてです。緊張のせいか、コチコチになっていました。

会見が始まり、毛主席はタバコを取って日本のお客さんに勧めましたが、団長の上林山栄吉氏が結構ですと言うと、「タバコを吸いませんか?それはいいことです。道徳的に私より立派ですね」と、毛主席は冗談を言いながらタバコに火をつけました。そして、「よくいらっしゃいました。われわれは同じ人種です(歓迎你们!我们是同一人种)」と、あの聞きづらい強い湖南訛りです。しかも初めてそばで聞く湖南訛りです。「よくいらっしゃいました。われわれは同じ人種です」と素直に訳せばよかったのですが、「よくいらっしゃいました。われわれは同じ種族です」とちょっとひねって訳そうとしたのがいけなかったのですね。中国語では、「人種差別」を「種族岐視」と言いますので、「人種」を「種族」と訳そうとしたのです。どうしたわけか、胸がドキドキし、慌てて「われわれは同じ民族です」と訳してしまいました。

流石は周総理。同席していた周総理は私の誤訳を聞くと、すぐ「民族ではなく、人種です」とそばから訂正しました。それを聞いて、私はさらに緊張し、パニック状態になりました。その時です。端のほうに坐っていた、東京生まれで「べらんめえ」調もあやつる廖承志氏が急いで毛主席のそばまでやってくると、微笑みながら「我来、我来!(私が通訳しましょう)」と言って腰を掛けました。はじめての毛主席の通訳でドジを踏み、ほんとうに恥ずかしかい思いでいっぱいでしたが、廖先生の助けでほっとしました。

会見は、通訳を入れて三時間つづきました。通訳を見習うこの絶好のチャンスをつかんで、私は毛主席の話と廖承志氏の通訳を注意深く聞きましたが、廖氏は流暢な日本語を操り、洒落のときには洒落に、厳粛なときには厳粛に、実に適訳でした。毛主席の話は、哲学的でありながら、ユーモアたっぷり、ときどきみんなの笑い声を誘いました。

当時はアメ帝反対のご時世でしたので、話の中で毛主席は、アメリカはあまりにも「手」が長く、世界のいたるところに「手」を伸ばしているが、各国の人民はアメリカの「手」を突き飛ばしてしまうにちがいないと言い、現に中国人民は朝鮮戦争のとき、「アメリカの『お腹』を突いたことがあります……」と話しました。

この「突き飛ばす」ですが、毛主席は中国語で「頂(ディン)」という言葉を使いました。廖承志氏はこれを「突き飛ばす」と訳すときに、少少躊躇ったようです。毛主席はそれに気がつき、「『頂(ディン)』の訳は難しいかな?」と言って自ら笑いました。廖承志氏は「大丈夫です」答えて通訳を続けました。

「頂」は、このほかに「たて突く」「逆らう」「つっぱねる」「突き上げる」など、いろいろ訳せますが、廖氏がその場で選んだ「突き飛ばす」の訳語は名訳だと思いました。

この日、毛主席はひじょうに上機嫌で、博引傍証し、弁証法を用いて核兵器、世界大戦および中日関係の未来と世界平和など、「天下の大勢」について論じたのが印象的でした。

 

名訳————「類は友を呼ぶ」

くだって1961年10月7日午前11時。

毛主席は中南海の勤政殿で日中友好代表団や教育代表団など国慶節式典に参加された多くの日本の友人と会見されましたが、その中には北京在住の「民間大使」と呼ばれる西園寺公一氏もおられました。

入り口に立って日本の友人を迎える毛主席は、濃い灰色の人民服を着ていて、真っ黒な髪の毛に顔色がいっそう血色よく見えました。

廖承志氏が毛主席のそばにたち、来訪者を一人づつ紹介しました。

毛主席はお客さんと握手を交わし、「ときに、中国ははじめてですか」と親しそうに聞きました。

和やかな雰囲気の中で、通訳をする私の気持ちもいくらかやわらいだことは言うまでもありません。

教育代表団の一人が児童文学に従事していると自己紹介しますと、毛主席は「それでは、あなたはアンデルセンの友達だね」と冗談を言いました。その人は嬉しくなり、「今日毛主席にお目にかかれ、私の人生ドラマはクライマックスに達しました」と興奮しながら言ったのが印象的でした。

広い勤政殿の応接間の正面に、大きな五星紅旗が掛けられ、赤い絨毯の上に藤椅子と藤テーブルが並んでいました。中国国旗の前で記念撮影をしたあと、毛主席はテーブルの上に置かれたパンダ印のタバコを取り24名の日本の友人一人づつに勧めました。吸わない人も、毛主席の手からタバコを受け取り、丁重に上着のポケットに入れたあの光景は今でも目に焼き付いています。

代表団の今回の訪中は、社会党の浅沼稲次郎氏が右翼の凶刃に倒れた一周年にあたり、この一年間に日本の政局は大きく変わり、安保反対の波の中で、岸内閣が倒れ、池田勇人氏が首相に就任した直後でした。

毛主席は歓迎の意を述べたあと、あの独特な湖南訛りで語りはじめました。「友人には本物とニセものがある」というあの有名な談話です。

「皆さんは私たちの本当の友人です。親米の独占資本と軍国主義軍閥をのぞけば、広範な日本人民は皆、私たちの友人です。皆さんも中国人民が本当の友人だとお感じでしょう。友人には本物とニセモノがありますが、実践を通じて、誰が本当の友人か、誰がニセモノの友人か、見分けることができます」

毛主席の話はいつも自由闊達、談論風発、私なぞとてもとても追いつきません。特に苦手なのは、古典の引用や諺です。

このときも、毛主席は中国の諺「物以類聚、人以群分」を使われました。わたしの耳に入ったのは、「ウー イー レイ ギュィ  イェン イー キュン フェン」という湖南訛りの強い発音だけでした。標準語の発音では「ウー イー レイ ジュィ  レン イー チュン フン」となりますが、緊張のせいで頭がボーとしてしまい、チンプンカンプンした。

困った顔の私を見て、その場に居合わせた廖承志氏が今度も助け船を出してくたさいました。

「類は友を呼ぶ」

なるほど、名訳です。直訳すれば、「物は類を以って集まり、人は群れをもって分かれる」ですが、あとで調べて見ますと、出典は『易経』であることがわかりました。

 

「君の入党はいつ?」

1962年の1月12日夜、毛主席は中南海の住居で鈴木茂三郎氏を団長とする社会党第三次訪中団の一行と会見しましたが、この時も通訳に呼ばれました。

着席後、毛主席はいきなり、賞賛の気持ちをこめて日本の社会党はヨーロッパの社会党と違って、戦闘性のある「奇怪」な政党であると切り出しました。当時の日本社会党が反米の面で態度がしっかりしており、旗幟鮮明であるという意味であることはすぐにわかりました。

鈴木茂三郎氏は挨拶のなかで、安保闘争後、新任のアメリカ駐日大使ライシャワーに言及し、ライシャワー大使が着任後、精力的に日本の労働組合や知識人層に働きかけるなどして六十年代初頭から一度高まってきた反米闘争を和らげ切り崩そうとしているという状況を説明されました。

毛主席は興味を示し、在席の廖承志氏に

「ライシャワーのスペリングは?」

と訊きました。英語を間断なく勉強しておられた毛主席らしい質問でした。

廖氏は紙に英語で書き、もう一人に確認してもらってから、「ライシャワーという名前はとても珍しく、どうもアングロサクソンの末裔ではないようですが……」と言って、毛主席に渡しました。

毛主席は、代表団の一行に主に中国革命の過程について語られました。それぞれの時期に中国革命に参加した人たちの数に触れ、若い党員が大量に増えたと話しながら、通訳をしている私のほうに振り返り、「君の入党はいつ?」と訊かれました。

「1956年です」と答えると、毛主席は客人に「彼も新中国が成立してから入党したのです」と言われました。

話の中で、団員の石橋政嗣氏がこんな質問をしました。

「毛主席は作戦がひじょうにお上手なので中国革命を勝利に導きました。どのような兵法をお読みになったのですか?『孫子兵法』ですか?」

毛主席は微笑んで、

「私は、本を読んで戦争するようなことはしません。本に頼って戦争をするようでは勝てませんよ。戦いながら学んで、その方法を身につけました」

「クラウゼヴィッツの本をお読みになったことがありますか?」

「革命以前に読んだことはなかったが、あとから読みました。クラウゼヴィッツの有名な論点は『戦争は政治の延長である』でしたね」

この有名な言葉は、中国語で「戦争是政治的継続」と言い、以前どこかで読んだことがあり、まだ覚えていましたので、スムーズに訳すことができて、よかったとそのとき安堵の胸をなでおろしたのを覚えています。

 

毛主席に名前を訊かれて

1962年に入って、わたしは毛主席の通訳を務めるなかで、二度ばかり名前を聞かれたことがございます。

最初は1月3日の晩、毛主席が原水爆禁止日本協議会理事長安井郁氏と会見したときでした。その日、日本側は安井氏のご令嬢と北京に常駐する西園寺公一氏ご夫妻が同席し、中国側は廖承志と王暁雲の両氏が陪席しました。

わたしは、お客さんより一足先に中南海の会見ホールに着きましたが、毛主席にとって見なれない顔であったためか、「君の名前は?」と訊かれました。

「劉徳有です」と答えると、傍にいた廖承志氏が「今晩の通訳です」と紹介してくださいました。

毛主席と直接言葉を交わしたのは、これが初めてです。わたしのようなヒラの通訳の名前を覚えられるわけがないのは分かっていましたが、それでも大変嬉しく思いました。

 

「君に徳があるか」

二度目は、1964年7月10日の午後、毛主席が人民大会堂で日本社会党系の五つの代表団と会見したときです。

夏の真っ盛りで、暑く、灰色の人民服の毛主席は喬冠華、趙安博の諸氏といっしょに藤椅子に腰掛けてお客さんを待っていました。私だけが白い開襟シャツというカジュアル姿で、なんだか決まりが悪かったのですが、通訳だから、誰も咎めないだろうと、自分で自分を慰めるほかありませんでした。

慣例により、通訳は私のほかにもう一人いましたが、チーフが私だと知ると、毛主席は私のほうを向いて優しく訊かれました。

「名前は?」

先程ふれたように、1962年1月の安井郁氏との会見のときに、すでに名前を訊かれたことがあるのですが、覚えておられないのは当然でした。

「劉徳有と申します」

「徳有?すると、君に徳があるのかい?」

私の名前は、生後まもなく、私塾の先生につけてもらったと両親から聞かされていましたが、父の話では、出典は『論語』の「子曰く、徳は孤ならず、必ず隣有り」で、中国語なら動詞が先にきて「有徳」が自然な形ですが、『論語』の順序にしたがって「徳有」にしたのだそうです。きっと、毛主席は中国語としてやや不自然な「徳有」という名前を聞いて、いったい徳があるのかないのか訊いてみたくなられたのでしょう。

毛主席に訊かれて、自分で徳があるとも言えず、さりとてないとも言えず、どう答えてよいかわからなくなりました。

困っている私を見て、趙安博氏が「とてもいい青年です」と言い添えてくださいました。

毛主席は満足そうに頷かれたのを覚えています。

「馬馬虎虎(マーマーフーフー)」は「まあまあ」

私が最後に毛主席の通訳をしたのは、1965年8月26日の午後でした。毛主席は人民大会堂で中日青年友好交歓会に参加したいくつかの日本青年代表団の団員と会見されたのですが、その前の年から『光明日報』の特派員として東京に駐在していた私は、ちょうど休暇で北京に帰っており、その日通訳に来るよう通知を受け取りました。

四百人あまりの日本青年が大ホールに集まり、一方で、代表団の団長と主要メンバーはべつの部屋で中国の指導者が来るのを待っていました。

そこに、毛沢東、劉少奇、周恩来、鄧小平、彭真、賀竜、郭沫若、劉寧一の諸氏がいっしょに現れました。これだけの指導者が一度に来訪した外国の青年たちと会うのは珍しいと言わなければなりません。

北京常駐の日本共産党中央書記局書記、砂間一良夫妻と在京の西園寺公一氏らが同席されましたが、毛主席は中国革命の過程をかいつまんで紹介されました。話を終え、日本の友人に「何かお話されることは」と、発言を促されましたが、青年たちはおそらく在席の砂間氏に遠慮されたのでしょう、先に口を開く人はいませんでした。しばらくして砂間氏が沈黙を破り、

「主席はお元気ですか?」

「還可以(ハイコーイ)」

毛主席の「還可以」を「まあまあです」と通訳したところ、毛主席は「まあまあ」の発音をまねて、「馬馬虎虎(マーマーフーフー)」と言われました。

中国側の同席者から愉快な笑い声が起きましたので、私はすぐ「馬馬虎虎」を「まずまずです」と訳し直しました。ちなみに中国語の「馬馬虎虎」は、日本語の「まあまあ」とか「いいかげん」の意味です。

この後、毛主席ら指導者は大ホールに移り、数百人の日本青年と会見をされましたが、この会見が終わって私は東京に戻り、一年も経たないうちに中国で「文化大革命」が起こりました。私にとって、毛主席の通訳をするのはこれが最後となりました。

 

「日本に虎はいないのか?」

つぎに、周総理の通訳をした話に移りたいと思います。

私は、周総理の通訳の時も、最初は見習いとして現場に身を置き、周総理の話の内容と話し振り、それに発音の特徴にまで注意力を集中しました。当時中国の指導者のなかで、周総理の言葉はいちばん標準語(中国では「普通話」という)に近く、わかりやすいと思いました。しかし、それでも個別の字の発音に独特のクセがありました。たとえば、「矛盾」はいま中国で一般に「マオドゥン」と読まれていますが、周総理は初めのころ「マオシュン」と発音しておられました。不思議に思い、家に帰って辞書を引くと、「盾」は「楯」に同じで、古音は「シュン」と出ていました。周総理は「矛盾」を現代音の「マオドゥン」でなく、古音で「マオシュン」と読んでおられたわけです。

ある時、関西経済代表団と会見したさい、周総理は日本の東南アジアへの進出に触れて、

「東南アジアの人々は『日本』という言葉を耳にすると、直ちに『タン フー シー ビェン』になる」

と言われましたが、聞きなれない発音で、意味がわかりませんでした。周総理が言われたのは「談虎色変(タン フー スォ ビェン)」で、「虎を談じて色変える」、つまり日本の噂をするだけで、顔色を変える(「真っ青になる」)という中国の成語ですが、「色(スォ)」を「色(シー)」と発音したため、「色変(シービェン)」を「事変(シービェン)」に聞き違えてしまいました。しかし、前後の関係から推して、明らかに「事変」でないことがわかり、戸惑っているうちに、通訳がそこでストップしてしまいました。

周総理は怪訝そうな顔をして私のほうを向き、

「日本に虎はいないのか?『タン フー シー ビェン』という成語もないのか?」

と訊かれました。私はようやく、「談虎色変(タンフーシービェン)」の成語だとピンときて、あわてて日本語に訳しました。

考えて見れば、私の「失敗」は、周総理の特徴ある発音がよくつかめていなかったことのほかに、当時の情勢についての勉強が足りなかったことも重要な原因のひとつであったと思います。実際に、周総理はそのころ幾度となく「談虎色変」の成語を使ってこの問題に触れていたことがあとでわかったのです。

 

「ルアンリンユイとは?」

また、周総理自らが私の通訳の不手際に救いの手を差し伸べてくださったことも、今では忘れられない思い出のひとつとなりました。

「阮玲玉(ルアンリンユイ)」――

この名前を周総理の口からはじめて聞いたとき、ほんとうに慌ててしまい、頭の中が真っ白になりました。

これは1957年3月11日の午後のことでした。中南海紫光閣で、周総理は映画監督の牛原虚彦氏を団長とする日本映画代表団と会見したとき、「ルアンリンユイ」が出てきたのです。「ルアンリンユイ」とは、誰で、どんな字を書くのだろうか?

「ルアンリンユイ」とは、1920年代に一世を風靡しつつも、若くして薄幸の生涯を自ら終えた映画女優であり、多くの中国人にとって、この超有名な大女優の名前はあまりにもよく知られていましたが、そのときの私はまだ若く、しかも日本の植民地だった大連に生まれ育った関係で、上海など中国の他の地方の出来事に疎いばかりでなく、世の中で踏んだ場数もたかが知れており、さらにまずかったのは、中国の映画界、とくにその歴史についてまったく関心がなかったものですから、「阮玲玉」の名前を知るわけがありませんでした。

「どうしよう?」

私は焦り、どこかから救いの神が現れないかと祈るような気持ちでした。残念ながら、このとき廖承志先生はおられませんでした。まさか周総理自らが救いの手を差し伸べてくれようとは思いもよりませんでした。私の困った様子を見て、周総理は通訳用のノートに三文字を書いてくれました——「阮玲玉」。

走り書きに近い字で、もしかして読み取れないのではないかと心配されたのでしょう、もう一度ノートに一画一画、きちんと書いてくださいました。私は文字を見ながら、「げんれいぎょく」と訳すと、牛原団長をはじめ何人かの方が頻りに頷いたことから、この人たちはすでに「阮玲玉」を知っていたのだということがわかりました。知らなかったのは、勉強不足の私だけだったのです。

 

「若い人には歴史の勉強を」

会見が終わったあと、周総理は私の“しくじり”——通訳の途中、口ごもったことについて、中国側の陪席者に語りました。

「若い人にはもっと歴史を知ってもらわなけりゃ。歴史は、切断するわけにはいかない。歴史をどこかに置き去りにしては、何も見えてこないからね」

当時、中国では若い世代に対して歴史を全面的に教えず、中国革命以外のことにあまり触れたがらない傾向にあったのはご存じのとおりです。周総理はそれを指摘されたのですが、私自身にとってもっと重要だったのは、周総理の心です。それはお叱りであり、手助けであり、教育でありました。周総理はズバリと私の急所を突き、はっきりと努力の方向を指し示してくださったのです。胸が熱くなり、心が温まるのを感じました。周総理がそのときノートに書いてくださった貴重な文字は、今も宝物として大事にしまっています。これを取り出して見るたびに、周総理の特徴ある筆跡の中に込められた思いやりと切実な期待がひしひしと伝わり、限りない力となって私を励まし、奮い立たせてくれるのです。

周総理の通訳への要求は厳しいものがありましたが、通訳の人たちの政治の面の成長のみならず、業務の習得にも心を配り、多くのことについて勉強させるようにと関連部門に指示しておりました。

 

厳しくも優しく

こんなこともありました。周総理が人民大会堂で日本の代表団に会うことになり、仕事の報告のため、接待班の責任者、孫平化氏は私たち係りの者を連れて、一足先に大会堂の「福建の間」で周総理を待つように言われました。

やがて、周総理が現れ、孫氏が報告を始めましたが、私は自分が一介の通訳にすぎず、報告の内容を聞いてよいものかどうか判断に迷い、離れたところに席が空いていましたので、そこに坐りました。

それに気づいた周総理は、

「君、こちらに来て坐りたまえ!君も報告を聞くといい。どうして自分の方から人民の外に身を置くのか?」

と言われました。

声は厳しかったですが、優しさが感じられました。会見に入るまえにいろいろと予備知識を身につけることができ、当日の通訳に大いに役立ったことは言うまでもありません。

 

一風変わった「車中会談」

中日関係の今日の発展を考える時、周恩来総理とともに多くの日本側の“井戸掘り人”を思い出しますが、代表的な人物を一人あげるとすれば、松村謙三氏をあげたいと思います。

なぜならば、松村氏は国交回復前のあのきびしい時代に、中日関係を「民間往来」から「半官半民」の段階へと推進した日本側の功労者だからです。

1959年から1964年まで、松村氏は三回中国を訪問し、周総理と会談をかさねましたが、三回ともわたしが通訳をつとめました。

松村氏の最初の中国訪問は、1959年の10月でした。その頃、中日間の「戦争状態」は法律上まだ終結されておらず、両国の間には不正常な関係がつづいていました。しかし、民間の交流は急ピッチで進み、経済は言うに及ばず、文化交流もすでに始まっており、中日間の往来はかなりの進展を見せていました。

ところが、この友好ムードを決定的にご破算にしたのが、1958年5月におこった「長崎国旗事件」であり、これは、当時の岸内閣の対中姿勢ないしは対中国政策と密接な関係があったことは言うまでもありません。この事件によって中日関係は抜きさしならぬ状態におちいり、両国間のパイプはほとんど全部詰まってしまうという大変難しい時期に入りました。

このような情勢を背景に、1959年ごろから、日本の政治家の間に、中日関係を憂慮し、表面に出て関係を改善しなければならないという動きが出てきましたが、元首相石橋湛山の9月訪中につづき、日中間の関係回復のきっかけをなんとか掴もうと、松村謙三氏の第一次訪中が実現したのです。

松村氏の第一次訪中について特筆すべきことは、かの有名な「車中会談」です。10月25日の朝、周総理は松村氏の一行を案内して、特別列車で北京の西北にある建設中の密雲ダムを見学したさい、その特別列車のなかで「周恩来・松村会談」が行われました。

この列車には一両の公務車両がついており、発車後まもなく、わたしは松村氏に伴ってその車両に入りました。秋の明るい陽射しが車窓から射し込んで、客間のようにしつらえてある車両の中はひときわ暖かな感じでした。そこに一足早く着いた周総理が待っておられました。

北京と密雲を往復するあいだに、それぞれ約二時間、二人は膝を交えて、中日間に存在する諸問題について率直に意見を交換しましたが、そのなかで、周総理は岸内閣の中国敵視政策と安保改定の動きに反対する立場を表明すると同時に、平和共存五原則の基礎の上に立って、中日両国の関係改善をはかるべきであると強調しました。これに対し、松村氏は日中両国には二千年にわたる友好の伝統があり、現在のような不幸な状態は好ましくなく、一日も早く正常な関係を結ぶべきであると述べ、日本はこんご中国とともに世界平和のために努力することを強調されましたが、岸内閣については、極力擁護する立場をとられました。

別の会談で、話が中国の発展に及んだとき、松村氏は「中国がこのように発展していけば、大きな国になる」と言われました。それを聞いて、私は外交の場での通訳は一字一句細大もらさず忠実にと思い、「中国会変得可怕的大」(「中国は恐ろしいほど大きくなる」)と訳してしまいました。

周総理はそれを受けて、「たとえ中国がこんご発展して強大になっても、決して他国を侵略するようなことはしません。中国人民は百年来、外敵の侵略を受けた歴史をもっており、苦痛をいやというほど嘗めてきました。その苦痛を他人に押し付けるようなことはどうしてできましょうか。『己の欲せざる所は、人に施すなかれ』と言うではありませんか」と言って、中国の平和外交政策を諄諄と説きました。その時は、まったく冷や汗ものでした。日本語の「おそろしく大きい」というのは、「とても大きい」というほどの意味で、別に「おそろしい」という意味はないのでしょうが、字面だけを追って通訳したため、話がとんだ方向へそれてしまい、大事な会談の場であっただけに、責任を強く感じた次第です。しかし、わたしの通訳の不手際で、中国の平和政策と哲学的な話を引き出す結果になりましたが、「怪我の功名」とはまさにこのことであろうか、と不謹慎にも思ったことがあります。

また、その後の会談で、松村氏は中国側が日本の立場にことごとく賛意を示したような発言をされたため、周総理は「私は中国共産党員で、松村先生は自由民主党に席を置いてあり、見解が同じであるはずがありません。不一致は当然であって、これを前提に、中日両国は平和に共存し、友好関係を発展させるべきです。われわれは、この点で意見の一致を見たにすぎません」と言われたことも印象的でした。

松村氏の第二次訪中によって、民間ベースによる長期貿易取り決めの基礎が確立し、待ち構えていたように、自民党の高碕達之助氏が北京へ飛び、同年11月9日「日中総合貿易に関する覚書」を廖承志氏との間で調印しました。これによって、両氏の頭文字(廖[LIAO]のLと高碕[TAKASAKI]のT)をとって名付けられた「LT貿易」という新しい方式の中日貿易がスタートしたのです。

これを背景に、1964年4月、松村謙三氏は三度目の訪中をされ、「LT貿易」を円滑に行うため、相互に連絡事務所を常設すること、また両国のマスコミ界が熱望していた記者交換を実現させることについて、周総理との話し合いでいずれも解決し、協定が取り交わされたのです。

これによって、1964年の8月に孫平化氏を首席代表とする廖承志事務所が東京の紀尾井町に創設され、9月29日に7名からなる中国の新聞記者が東京に到着(私もその中の一員)、同じ日に、日本の記者9名が北京に到着し、中日間で戦後初の新聞記者交換が実現されました。

松村氏の三回にわたる訪中は、中日関係をこれまでの「民間往来」を「半官半民」の関係へとおし進めた点で、歴史的で画期的なできごとであり、1972年に実現された日中国交回復も、この「半官半民」によって重要な基礎づくりがなされたと言っても過言ではないと思います。

さて、ここでエピソードをひとつ。

周総理は若いころ日本で留学されたことがあり、いつかは日本を再び訪問したいというお気持ちがあったことを、私は通訳の仕事の中で感じたことがございます。

たしか、1974年の5月、松村謙三先生の第四次訪中のときのことだったと思います。そのころ、私は東京に駐在しておりましたが、ちょうど休暇で北京に帰っていました。周総理と松村氏との会見があると言うので、人民大会堂に行って会見室で一行を待っている間に、周総理から、東京の高速道路のことや琵琶湖のことについていろいろと聞かれましたが、このことからも周総理が京都や琵琶湖をどんなに懐かしがっておられたかがよくわかりました。また、1962年、高碕達之助先生のご一行を北京にお迎えしたとき、宴会の席上で、高碕先生が周総理に、「日本に一度おいでになりませんか」とお誘いしましたところ、周総理は「伺いたいと思っておりますが、今は不可能です(国交未回復が原因で)。法律に“仮釈放”と言うのがありますが、もし総理に“仮辞職”というのがあれば、日本にいけますね」とお答えになりました。私の推測ですが、もし、国交回復後、すぐに中日平和友好条約が締結されていれば、日本訪問が実現されていたかもしれません。残念ながら、この条約は6年もかかって1978年に調印されましたが、周総理はその二年前の1976年にお亡くなりになりました。まことに残念と言うほかありません。

 

陳毅副総理との会見

陳毅副総理は豪放磊落、ものをズケズケ言うことで有名です。

1960年、安保闘争の高まりのなか、野間宏氏を団長とする日本文学者代表団の一行が中国を訪れました。亀井勝一郎、松岡洋子、竹内実、開高健、大江健三郎、白土吾夫という大変な顔ぶれでした。

6月6日、国務院の執務室の応接間で一行と会見した陳毅副総理の話に、私は通訳をしながら、大きな感銘を受けたのを今でも覚えています。いかにも闊達で、時にはユーモアを交え、しかも中国人の言いたいことを歯に衣を着せずズバリと言ってのけた点がとても印象的でした。

 

日本人を見直した

「最近おこなわれた日本人民の日米安保条約反対闘争を通じて、私は日本人を見直しました。これで、日本人に安心しました」

と言って、陳毅副総理は言葉をつづけました。

「皆さまは文学者です。ですから私は率直に申し上げますが、日本人は実に長い間、中国人に対して傲慢な態度をとってきました」

「しかし、過去のことは水に流しましょう」

そのとき陳毅副総理が言った中国語は、「過去的事情就譲它過去吧」でした。直訳すれば、「過ぎたことは過ぎたことにしよう」の意味ですが、どうも翻訳臭いので、いつだったか先輩に「水に流そう」という「日本語らしい」表現にしたらと言われたのを思い出して、「過ぎたことは過ぎたことにし、水に流しましょう」と訳しました。今にして思えば、この訳は必ずしも適訳と言えないかもしれません。

野間団長は、この「水に流そう」という言葉を受けて、

「われわれ日本人としては、中国への侵略の責任がある以上、それを忘れることはできず、水に流すわけにはゆきません」

と述べました。

陳毅副総理はハタと膝を打って、

「そのとおり!そう言っていただくと有り難い。われわれは、過ぎたことは過ぎたことにしようと言い、あなた方は過去のことを忘れないと言う。そこで両国民の間にほんとうの友情が生まれるのです。もし、われわれが何時までも日本を恨み、あなた方日本人が中国に与えた損傷をあっさり忘れるとしたら、中日両国はいつまでたっても仲良くなれないでしょう」

と言いました。

加害者がほんとうに心から反省してはじめて被害者が寛容な態度がとれると思います。今年の春、全人代の記者会見で王毅外相が「加害者が他人に加害したことを忘れない態度をとればとるほど、被害者もそれだけ心の傷を癒すことができる」と言いました。私は、これは人と人が付き合う上での正道であり、歴史問題に対する正しい態度だと思います。

 

中日交流史の貴重な一ページ

ここまで話して、私は今から60数年前の1955年、郭沫若氏のひきいる中国科学代表団に随行して日本を訪問したときのことを思い出さずにはいられません。郭沫若先生は日本に着いてすぐ、自らすすんで北鎌倉にある、岩波書店の創立者·岩波茂雄氏のお墓参りをすると言いだしたのです。

その頃は、新中国成立後わずか6年、かつての戦争のことを思い出し、なぜ郭先生が日本人の墓参をするのか、二十歳代の私にはまったく不可解でした。

ご存じのように、郭沫若先生は若い頃、日本に留学し、帰国してから、旧政権の迫害を受けて、20年代に日本に亡命し、千葉の市川に住み着きましたが、1937年7月盧溝橋事変が勃発すると、郭先生は一人で日本を脱出して、民族解放に身を投じるため中国に帰りました。日本に残された奥さんと五人の子供は政治的迫害を受け、経済的にもひどく困難な状態におちいりました。奥さんが憲兵に連行され、一家がどうにもならなくなったとき、岩波氏は市川市に一家を訪ね、長男にたいして一家の生計費と子供の学費を負担すると言いましたが、当時では、これは大変なことでありました。ましてや、「敵に内通する」「売国」の罪を被る可能性もあったわけですが、しかし、岩波氏は少しもためらいませんでした。

惜しいことに、岩波氏は、新中国が生まれる三年前の1946年に亡くなりました。郭沫若先生にとって岩波氏は言わば一度も会ったことのない恩人であり、郭先生は18年ぶりの日本訪問の機会に、恩人のお墓参りを申し出たのです。この時になって私は初めて、郭沫若先生がなぜお墓参りをすると言い出したか、そのわけがわかりました。

岩波家の人が郭先生にお礼に言葉を述べると、郭先生も正座して感慨をこめて丁重にこう言いました。

「岩波茂雄先生にお会いしたことはないのですが、いろいろお世話になって大変感謝しております。18年前、私は家族を日本に残し、ただ一人で中国へ帰りましたが、岩波先生は私の子供に費用を出して勉強をさせてくださいました。現在、二人の子供は大学を卒業して、長男は研究員として大連化学研究所に勤めています。次男は上海で勤めています。岩波先生にはなんとお礼申し上げたらよいか」

そう言って、郭先生は筆をとり、色紙につぎのような詩をしたためました。

 

   生前未遂識荊願   生前未だ遂げず識荊(しきけい)の願い

   逝後空余掛剣情   逝後(せいご)空しく余す掛剣(かけん)の情

   為祈和平三脱帽   和平を祈らんがために三度脱帽

   望将冥福裕後昆   望むらくは冥福をもって後昆(こうこん)かならしめん

 

「識荊」とは、「李太白文」に見える故事で、待望の人に初めて会うことをいう成語ですが、郭先生は岩波氏の生前に「識荊」の願いを遂げられなかったことを嘆いて「生前未だ遂げず識荊の願い」と詠み、つづいて、「掛剣」の故事を引用して、「逝後空しく余す掛剣の情」としたためて、岩波先生に会ってお礼を申し上げたかったのに、先生はすでに亡くなられている、その無念さ詠んだのであります。ここで、「掛剣」について一言。——春秋時代、呉の王子季札は、使者として魯の国へ行く途中、徐の国に立ち寄りました。徐の君主は季札の剣を見て欲しいと思いましたが、口に出して言えませんでした。季札にはその気持ちがよく分っていましたが、使者として諸国を歴訪するのに剣を外すわけにはいかず、そのまま立ち去りました。そして帰国するとき、剣を進呈しようと徐の国を尋ねましたが、徐の君主はすでに亡くなっていました。そこで季札は剣を徐の君主の墓のそばの木に掛け、その願いを叶えてあげたのです。最後の二句は、岩波先生の墓前で、世界の平和を祈り、先生の子孫が幸せになるよう心から祈ったという意味であります。

私は、この心暖まるエピソードは、一般に知られざる中日交流史の貴重な一ページであり、郭先生がいかに「情」を重んじたかを示していると思います。もちろん、両国関係の中で国家利益は重要であり、互いに譲れませんが、しかし、民間交流のなかで「情」も重要であり、今後中日関係と文化交流を発展させるうえで不可欠であると思います。

 

キーワードは友好・協力・平和・発展

中日関係について言えば、新中国樹立後の長い歳月のなかで民間交流はつねにきわめて重要な地位を占めてきたことが大きな特徴としてあげられましょう。戦後の日中友好運動が「草の根」運動から始まって、今日のような局面を迎えるにいたったのは、無数の有名無名の「井戸掘り人」の心血が注がれてきたからであり、中日友好の基盤は、ほかでもなく広範な両国人民の友好であることをこれまでの交流の歴史が立証しています。このように、艱難辛苦を経て手にした中日友好の成果をお互いに大事にしなければならない理由は百も千も万もありますが、この成果を損なってよい理由は一つもないはずです。

1972年の9月に、両国指導者の叡智と勇気と決断があったからこそ、あの時点で27年もの長い間懸案になっていた国交回復が実現されたのです。その成果をぶち壊しては、どうして先人に顔向けができるでしょうか。また、子孫に対して言い訳が立つでしょうか。

中日関係が戦略的互恵関係を全面的に推し進める新しい時期に入った今日、民間交流はすでにその歴史的使命を終えたと見る向きもあるようですが、わたしはそう思いません。むしろ、国交が正常化されたことにより、若者の交流をも含めて人民間の友好活動にいっそう広々とした道が開け、活気づいてきたというのが実情ですが、数年前に起きたご承知のような原因で中日関係は谷底に陥り、両国人民がともに心痛めています。両国間に存在する不安定要因を取り除き、人民間の相互理解と信頼を深め、世世代代の友好を実現させるうえで民間交流はひきつづき大きな役割を発揮できると思います。中日関係の原点に立ち返り、文化交流・青少年交流を含む各分野の交流を深め、長期にわたる、安定した健全な友好関係を維持することこそ、最重要課題であると思います。

21世紀に入った今後の中日関係を考えるとき、そのキーワードは友好・協力・平和・発展であり、非友好・非協力・反目・敵対であってはなりません。これは両国人民の共通した願いであり、追及すべき目標でもありましょう。

微力ではございますが、「未来の会」の皆様とともに中日関係の麗しい未来のために努力してまいりたいと思います。お粗末な話で恐縮ですが、こんごの中日友好交流に少しでもお役に立つことができれば、望外の喜びでございます。